それは世界の片隅で起きたちょっとした奇蹟 ――















Violin Romance















春、暖かな風が吹き始めた星奏学院の校内を一人の女子生徒が全力疾走していた。

長めの髪を翻して一心不乱に走る少女にすれ違った生徒の反応は様々だ。

冷笑する者、呆れたように視線を送る者、驚く者、笑いかける者、声援を送る者。

その全てを受け止めて彼女は元気よく走る。

彼女の肩に担がれた真新しい楽器ケースが主の気持ちに添うように元気よく揺れて。

「そこの茂み!」

「えっ!?」

不意にかけられた声に少女が音がしそうなほど急ブレーキをかけて止まった。

そしてはっと横の茂みを見て。

「見つけた!!!」

勢いよく『何か』に飛びついた彼女の手には一枚の楽譜が握られていた。

「やった!エンターテイナーの楽譜!!!」

飛び上がって喜ばんばかりの女子生徒にその在処を教えた女性はくすくすと笑った。

と。

『ちょっと、今のはずるいじゃないの〜。教えちゃだめよ、香穂子。』

恨みがましい声で名指しされて笑っていた女性 ―― 日野香穂子は軽く肩を竦めた。

そして少女の手の中、楽譜と一緒にしっかり握られている小さな妖精を指先で軽く突いた。

「ずるいのはそっちでしょ。茂みの中なんて見つけにくいったらないのに。ねえ?」

「はい!」

力一杯頷く少女にファータがまだぶーぶーと文句を言っている。

と、不意にファータとやり合っていた少女が香穂子の方を振り返った。

「でも日野先生は本当にファータが見えるんですね。」

日野先生、という呼称がややくすぐったくて香穂子は苦笑した。

教育実習のために母校である星奏学院に来て1週間ほどたつが、なんというか慣れない。

「まあね。その話、誰に聞いたの?」

「火原先生です。先生はもう見えなくなっちゃったんだけど日野先生にはまだファータが見えるんだよって言ってました。」

一足先に正式に星奏学院の教師となり今回のコンクールの担当教官をしている・・・・もとい、金澤に押しつけられた先輩の名前に香穂子は頷いた。

「あ〜、情報源は火原先輩かあ。あんまり言うなって言われてるんだけどね。」

「そうなんですか?」

「そう。思わずちょっかい出したくなっちゃうから私も控えてるんだけど。リリに怒られるし。本当は私も結構苦労したから手伝ってあげたいんだけどね。」

いたずらっぽくそう言うと少女はくすくす笑った。

「やっぱり先生も苦労したんですか?」

「もっちろん。貴女みたいに毎日走りまわったよ。」

「先生もそうだったんだ!」

共感者を得たせいかさっきより親しみを感じさせる顔で笑った少女に香穂子も同じように笑い返した。

「すっごく疲れるし、すっごく大変だけど頑張って!」

「はい!」

香穂子の応援の言葉に少女は元気よく頷いて立ち上がった。

そうして楽器ケースに大事そうにさっき手に入れた楽譜をしまうと何故かそっと香穂子を見た。

「?どうしたの?」

「あの・・・・1つ聞いてもいいですか?」

「私でわかることなら。」

「え−っと・・・・」

香穂子が請け合うと少女は少しだけ言いにくそうに口ごもり、それから意を決したように顔を上げて言った。

「先生達のコンクールの時、ヴァイオリン・ロマンスって起きたんですか?」

「!」

思わず香穂子は息を呑んだ。

真っ直ぐ香穂子を見つめている少女の視線に見覚えがあった。

他でもない、数年前、彼女と同じ制服を着ていた頃の自分だ。

(ああ、そっか・・・・)

「好きな人がいるの?」

「!」

香穂子の言葉に今度は少女が面食らったような顔をして・・・・それからみるみるうちに赤くなる。

その見事な反応に思わず吹き出しそうになってしまって、なんとか堪えた。

「か、からかわないでください。」

「ごめん、ごめん。」

力無いながらも抗議されて香穂子はなんとか謝った。

それからちょっと不満そうな顔の少女に向き直って言った。

「からかっらわけじゃないの。ただ懐かしいなって思って。
・・・・でも残念だけど私たちのコンクールの時もヴァイオリン・ロマンスはなかったよ。」

少しだけ痛んだ心は無視をしてつとめて何気なく。

言われた少女の方はしゅんと肩を落とした。

「そうですか・・・・」

「でもね。」

その肩に香穂子はぽんっと片手を置く。

つられて上げた少女の少しさえない顔に明るく言った。

「しばらく起きてないからって、今回起きないって誰が言えると思う?」

「え?」

「ああいうのはね、一種の奇蹟なの。だから何時起きるとも限らないし、逆にだれが起こしたってかまわないでしょ?」

「あ・・・・」

香穂子の言葉は少女の心に何かを落としたらしい。

彼女の顔にゆっくりと明るさが戻っていくのが手に取るようにわかった。

そして仕上げのように少女は大きく頷いた。

「起こってないなら、起こしちゃえってことですよね?」

「そういうこと。」

にこっと笑うと、嬉しそうに少女も笑った。

「ありがとうございます、日野先生。なんだか元気でました!」

「よかった。頑張って!応援してるよ。」

「はい!それじゃ!」

笑顔のまま少女が身を翻して走っていく。

その後ろ姿を笑顔のまま見送った香穂子は ―― その背中が完全に見えなくなってから唇を噛んだ。

「・・・・なにをえらそうなこと言ってるんだろ。」

ぽつりと呟いた声が嫌になるぐらい苦々しくて香穂子はため息を一つついた。

そして少女の消えていった先をもう一度見る。

元気よくスカートを翻して、真っ直ぐに真っ直ぐに音楽を ―― 恋した人を追いかけていったあの後ろ姿。

その姿が見てもいなかった自分の後ろ姿に重なる。

そしてその頃の自分が真っ直ぐ真っ直ぐ追いかけていた人の姿を幻のように思い出させて。

「コンクールに関われたのは嬉しいけど・・・・これはちょっとキツイなあ。」

我ながら情けない声で呟いて香穂子は振り切るように踵を返した。

向かう先は正門前のリリの銅像。

(ファータにあんまり意地悪な場所に隠れないように注意してもらわなくちゃ。)

そんな事を思いながら香穂子は星奏学院の校内を歩いていく。

―― 今、学院を駆け抜けているあの少女のように香穂子自身が全速力で駆け抜けたコンサートから5年がたっていた。